この世の中で起きていること、今までの歴史、宇宙、私たちの存在そのもの、その中に確実なものはいったいあるのだろうか。
私達は何を見て何を知って来たのか。何を頼りに信じて来たのかと言ったほうが良いのかも知れない。たった数十年前に本当は何が起きていたのかも、いやいや、今の世の中に起きていることすらわからない事が多すぎて、答えを外から求めて必死だった。現実的な事で言えば天気予報から始まり、ニュースなどから手っ取り早く情報を得て何が有益なのか、災害を回避し、知恵を得たり、様々なものを消費したり物事に対処し、時に戦い、備え、そして上手くやって来たつもりかもしれない。けれども、よく考えるとその心の根っこにあるものとは、不安からなのか恐れなのか。ただ困るからか、いったい何なんだ?そこを気をつけなければならない。人と同じでないと不安だからか。そして本当の事は何?知りたいという欲求に反して、もはや親も先生も教科書も本当のことはほんの一部しか教えてくれていなかった。と、気づいた。
物質的なものは確かに目の前にあるし、現象も起きているけれど、それもこれも確実なものは一体どれほどあるのか。不確定な真実が取り巻いていて、真実なんて本当は何一つないのかもしれないのに(ここは理解するのがとても大変)一生懸命に意識を注いでいるだけなのかもしれない。それこそが地球人の一生で、思考操作、洗脳、支配の渦中なのではないか?
本来の思考とは?目醒めよ!信じるものは内なるものだけ、自分だけにーそれも虚しすぎる( ;∀;)
今の私の気づきはこれだけは言える。私達は一定の方向に思考が集中するようにされすぎている。より人間らしく感情を操られ、従順な社会人となるように。見方によっては奴隷としての思考へと仕向けられて、自分からトラップにはまって行き日々対処に忙しい。なぜなら喜怒哀楽があるから。自分の外側に原因があると喜怒哀楽がより面白いように感じられるので。
もうそんな事に浪費せず、今ここの意識に注目して不確かな世の中を自分たちがデザインしていく方に意識を反転させる技を身につけなければならない。
そうなると面白い。だから面白い。面白い方を選べるのだから。
確実なのは、自分が選んだ今だけ。
追記
これは2022年8月16日の午前4時から5時頃、珍しく起きていて、何だか書き残しておきたくなり、珍しくこの長文を残しました。空が明るくなってきてまた寝ました(笑)
目が覚めたら、私が1番慕っていた伯母さんが朝方4時59分に亡くなったと連絡が入っていました。
叔母さんが最後にプレゼントとしてこんなことを悟らせてくれたのかも知れません。あちらから見るこの世の見え方だよと。
素敵で大好きな叔母でした。叔母さん、たくさんの思い出をありがとう。お疲れ様でした。
写真は無くなる前日にみた登り龍のような雲です。
